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やまと心の森林農法
アマゾン移住90周年に想う (上)
Jornal Nikkey Shimbum 2019/oct/3
やまと心の森林農法
アマゾン移住90周年に想う(上)
松田パウロ
天上大風 大河有情
アフリカ大陸サハラの沙漠より舞い上がる砂塵は偏西風(Os ventos
alisios)に乗り、無尽蔵のミネラルをアマゾニアに降り注ぎ、大森林を養っているという。砂塵に大量に含まれる鉄分は、生命の起源物質で、化学記号で「Fe」と表記される。
日本人移民の湧き上がる意気と情熱は、幾多の海洋民族のFe信仰と溶け合い、うねり流れる大河の岸辺に、生命を燃焼させる。
移民90周年を迎え、やまと心は湧き上がる白い雲となり、緑の海を流れゆく。
定時 定点 必達
20世紀最大の森林資源開発の華、その名は、ジャリプロジェクト 。
1976年ユダヤ人大富豪ダニエル・ラディックの発案により、アマゾン河口北岸アマパ地方に世界最大の森林資源開発は始まる。
熱帯アジア原産の急成長樹種グメリーナ は、すでにイギリス王国により西アフリカのマラウィー国にて小規模に産業造林に成功している。
ダニエル・ラディックは、グメリーナとカリブマツを主体に20万haの一斉造林を目論んだ。そのプロジェクトの中核となるパルプ精製工場は、遥か日本国、広島県の呉市の石川島播磨造船に発注された。
かつての呉海軍工廠の「ゆめ」の跡、戦艦大和建造の誉れ高き造船所である。
二宮金次郎先生の報徳思想の実践者である土光敏光社長により、呼び覚まされた技術者魂は、リオに進出したイシブラスと呼応して、大海を渡るのだ。
長さ230mと220m、幅45mの二艘の巨大な艀に、世界最新鋭のパルプ精製工場、もう一方の船に最新鋭発電所を搭載し、喜望峰まわりで87日間、曳航される。
文明から隔絶されたアマゾン河北岸の辺境の地に着岸して、わずか10カ月後に最新鋭工場を稼働させたことは、自由で強靭な未来都市の創造の可能性を示した。
後に「増税なき財政再建」で有名になる土光敏光社長は、リオのイシブラス創立において人を育てることに重点を置き、会計部門までもブラジル人に解放してしまう。それは適地技術の展開に終わりなきことを予知している。
ところで戦艦大和とは、重厚長大産業の代表に見えて、実際はコンパクト化技法の集大成であり、職人技の結晶である。
長さ263m、幅38・9mの船体に、高出力の蒸気タービンを搭載して、燃料庫、弾薬庫には爆発物がギッシリひしめく鋼鉄の艦に3千人を超える血気盛んな兵士が搭乗する。(アマゾンのフォード王国は、100万ヘクタールに労働者3千人を構想)
「大和ホテル」と揶揄される空調設備は、弾薬庫の冷却のお裾分けに過ぎない。よくぞ、これだけの爆発物を詰め込んだものと感心させられる。
美味な食事の配給は兵員のストレス暴発を防ぐ必需品であり、疲労回復の特効薬としての三ツ矢サイダーの製造は消火設備から発生する炭酸ガスを活用する。
ジャリプロジェクトは、最先端のパルプ工場と発電設備を二艘の方舟に分離させたことにより、安全性は確保された。日産750トンの漂白クラフトパルプを生産し、精製で発生する残渣は、グリーン・リカーとして工場のボイラー燃料に還元され、最終廃液は養魚場に活用し、並行して水田開発も実施された。
しかし、大資本を投じた森林資源開発プロジェクトは、あっけなく破綻してしまう。完璧を期した一斉造林は、日照りと病害の発生により、虚しく消滅するのだ。
効率よく森林資源を支配せんとする野望は、アマゾニアには、全く通用しない。
しかし、ジャリ計画には華がある。それは、巨大工場の接岸の時である。
最新鋭のパルプ工場と発電所の2隻は、あらかじめ打ち立てられた基礎の杭に着座させ水平を保つ。その基礎の杭は、超耐久木マサランドウーバの巨木1万6000本。
日本からベテラン技師が勢ぞろいで接岸、着床の微調整に当たるのであった。
ちなみにルドウィックの奥様は日本人で、不思議なご縁は、アマゾニアに花開く。
現在は、ブラジル人実業家セルジオ・アモローゾにより新たに日本製の新型設備に更新し、多種多様な樹木からパルプ生産は継続されている。
堅牢なプラットフォームは、経済変動の荒波にも技術革新にも対応し、限定された空間では、ブラジル人は素直かつ自由奔放に才能を開花することを実証している。
「人なき土地に、土地なき人」ではなく、知識を磨き、技を練る清浄な空間を堅持することこそ、ブラジル国の求める日本人開拓者の使命なのであろう。
それは集約農業から花卉栽培、あるいは寿司屋から武道の修行まで、いたるところで日系移民の成し遂げた足跡である。
自然法爾の開拓精神
1929年に開設されたアカラ植民地は、60万ヘクタールの原生林。
その開発を請け負う時の財閥・鐘紡は、国家プロジェクトと位置づけ、植生調査と試験栽培に、専門技術者が常駐させている。その人財基盤の元に、親鸞上人の教えを一途に信じる草分け移民は、アマゾニアに定住するための新しい農法を模索する。
アカラ植民地は20周年を迎え、コショウ栽培の大躍進によりトメアス移住地となる。南米拓殖試験株式会社(南拓)の試験場跡地は、やがて坂口農場となり、熱帯作物の研究は継承されてゆく。移住地悲願のアマゾニア農大トメアス分校は、坂口農場から提供された農地8・9ヘクタールに、2014年に建学される。
1976年、坂口農場にて、カカオを主体とする森林農法が産声を発する頃、ジャリプロジェクトの期待のグメリーナの種子が、ブラジル農務省より贈られた。
何気なく、農場入り口のアサイヤシの森の木蔭に定植したグメリーナは旺盛な生長を開始する。その母なるアサイヤシは造林したのではなく、野鳥のトゥカーノが、その大きなクチバシからアサイヤシの種子をこぼしてくれた御蔭という。野鳥による樹下植栽は、森林農法のはじまり、「生命解放の農学」と呼びたい。
若い苗木にとって、夜明けとともに、母樹の降らせる朝露は実にありがたい。
そして重厚な森は、定刻に驟雨・スコールを正確なリズムで呼んでくれるのだ。
坂口農場の入り口は南拓試験場時代は、赤坂と呼ばれ怖れられた。雨にぬかるむ坂道は、鉄分の多い粘土質を物語る。
この地域がアサイザールと呼ばれるのは、もともとアサイヤシの茂る土地柄なのだ。カカオ園の庇陰樹(ひいんじゅ)エレトリーナの咲く頃、午後3時過ぎに、その坂の上の丘にのぼり、地平線から寄せ来る一群の雲を観察する。
まず強い風が吹き、やがて叩きつける雨。葉に積もる埃を洗い流し、体に染み入る慈雨こそは、植物には最高の活力源である。
とても穏やかに見えてしまう熱帯降雨林ではあるが、そこに働く人の食事と仕事の分量は、厳しく節度を求められている。
一気に数百haを開墾した牧場では、激しい上昇気流を生み、押し寄せる雲は見事に迂回してゆくのは明瞭。雲をして、天の意思を語らしむ。
和歌山県の山深き熊野古道に生まれた坂口陞氏(さかぐち・のぼる)は、良寛さまを想わせる穏やかな語り口で法話のように森林の生態と遷移を解説するのであった。1982年に農業実習生として坂口農場に学んだ筆者は、樹高15m、直径40cmに育ったグメリーナ樹一本を斧で伐採したが、5年生とは思えない迫力を感じた。
しかし「最低30年を待たねば、木材として一人前とは呼べぬだろう」と農場主は唱える。欧米人が対決する自然「しぜん」と日本人の対話する自然「じねん」その違いは、己(おのれ)を虚(むな)しく「自ずから然しからしむ」時間感覚にある。
アマゾニアの天地開闢に立ち会い、征服欲は持たず、人間のあるべき姿を想い、慌てず、うろたえず、人知れず種子を蒔き、森林農法の花を静かに咲かせている。決して森を「育てた」などと主張しない。「育つんだ」と信じ、慈しむ。
先駆者の想いを秘めて、木陰の道は、快適なり。
(つづく)
https://www.nikkeyshimbun.jp/2019/191003-62colonia.html
ベレンにあるウチンガ州立公園(本人提供、Parque Estadual do Utinga)
撮影日=2019年8月
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やまと心の森林農法
アマゾン移住90周年に想う (中)
Jornal Nikkey Shimbum 2019/oct/4
やまと心の森林農法
アマゾン移住90周年に想う(中)
松田パウロ
熱帯の知性
ブラジル国の日本人移民の初期の指導者として、南伯に東山農場の山本喜誉司。北伯に平賀練吉。敬称略は、歴史に名を刻む偉大な名前の証。
共に東京帝国大学で林学を専攻されているのは偶然ではない。
ブラジル国は日本人農業移住者を受け入れる111年前から、大農園の耕作放棄地は拡大していた。
豊かな土壌を使い捨てるサトウキビとコーヒーの地力略奪農業は、破綻する寸前にあった。聖市でもベレンでも同時進行のように、汽車の燃料たる薪の枯渇に二人の林学者は直面している。
そして農業開拓のはじまりから、薪炭林の造成を構想し、開拓者が一時的な経済的成功を焦らず、育林活動の定着する仕組みを、模索しているのだ。
その上で、拡大する耕作放棄地、砂漠化寸前の牧場跡地の地力を再生する農法を提案する。多種多様な植物の個性を学び、作物生長を予想する森林農法は、地力向上から知力向上へ、森林再生から水源創造をめざす知的集約産業であろう。
平賀練吉の慈父平賀敏は、慶應義塾出身の関西の代表的な財界人で、鐘紡、阪神急行電鉄はじめ数多く関与した事業のひとつに帝国鉱泉がある。
三ツ矢サイダーの前身である。アサヒビールと合併した今もなお、研ぎ澄まされた味覚の探求は、都会人のストレス解消の役割を果たしている。
平賀練吉は帝大卒業後、大阪営林局に着任していた。林業は現代では影が薄いが、戦前は山村に子供たちが活発に飛び回り、活気に満ち溢れていた。その経済活動の中枢に営林所があり、山官の権限と責任は、絶大であった。
北半球において森林は、均一な針葉樹の大森林を理想とし、人間関係においても、適度な距離を保ち合い、生長を競い合うという理念を確立させている。
一方、熱帯の森林は多様な樹種が混在し、樹木は各々個性豊かに孤高を保っている。精鋭樹は、種子を遠方に飛ばし繁栄する術に長け、決して群がろうとしない。
アマゾニアの原生林で、平賀練吉は、人知れず植物名を学び、木材標本づくりに励まれたという。未だ安定生活とは程遠い、移住地建設の指導の激務の中に。
終生、決して苦労を語らぬ平賀練吉 も、唯一の心のこりは、第2次世界大戦中の焼き討ち事件により、木材標本をすべて焼失してしまったこと、と伝え聞く。
胡椒の里トメアス移住地の始まりは、多種多様な樹木とのめぐり合いに在る。
日系人住居の特徴として、木製外壁の板が地面に水平な「横張り」であり、ブラジル人の住まいは、掘っ立て小屋式の「縦張り」が主流である。縦張りの方が施工は楽だが、空調機能と耐久性にとぼしい。
移住地の病院、小学校、移住事業団官舎すべてに感じる、どこか温かく、懐かしい明治のかほり。
それは、日本人移民の安易な土着を許さない、誇り高き定着への覚悟を物語る。
移住事業団の官舎が、熱帯樹木を活用しながらも、祖国の営林署に見えてしまうのも面白い。熱帯林に溶け込む日本型コロニアル建築と表現したい。
初期のアマゾニア移民は当然、自分の耕地から建築用材を探し出さねばならない。山焼き前に全精力で樹木を探り、斧を振るう。掌は、皮がむけ、血に濡れ、斧の柄と一体化する。そして樹幹を玉切りにして、人力で担ぎ出し、製材する。
高級建築材、工芸用木材は、非常にアクが強く、火が入ると真っ先に燃焼する。胡椒栽培に必要な支柱材アカプー は、家族総出の担ぎ出しだ。支柱一本の長さ3m、60~80キロの支柱は、森の中で、楔や斧で割られて搬出された。
胡椒栽培の全盛期には、ブラジル人の木挽職人も頼もしく育っている。
例えば、長さ4mの日本人向け規格の矢板の木挽を請け負う。一日働き矢板24枚を挽き、黒フェイジョン50キログラム相当の日当は、職人技に相応しい。
熱帯アジア、インド南部で発展した木挽技法と推測する。ただしトメアス移住地では、この木挽作業は森の中、涼しい環境の有り難さを日本人移民は、学ぶのだ。
枝葉、樹皮、辺材、鋸屑は、すべて森の中に留まり、驚く速さで微生物に分解され、土に還る。製材歩止まりは、総合100パーセントとなる。
コショウ栽培が全盛期を迎える頃、新しい耕地を伐り拓く屈強な杣人集団も現れる。原生林1ヘクタールを、伐開するのに、黒フェイジョンで160キログラム。5ヘクタール拓いて、ゼブー牛1頭分の賃金。木挽職人と比べ、勇壮だが、粗雑な仕事になる。
牛2頭を養うに、3ヘクタールを要する風土にあって、日本人農家の開拓規模は、あまりにささやかと、ブラジル人の牧場主つまり地元の政治家には映るだろう。
ただし、アマゾニアの風土に適合する牛はゼブ種、のんびりしたインド原産だ。
開拓の初期に適合作物に恵まれず、日本人は、地力と刃物の消耗の早さに圧倒されつつ、熱帯の鉄文化の合理性と巡り合い、熱帯の知性を習得してゆく。
鋭利な刃物の刃こぼれを修復し研ぎ直すには水と砥石を使い、数時間を要するが、柔らかな刃物ならば、レンガや陶器の底にて簡単に研ぎ直し、すぐに作業に復帰できるのだ。農具も機械も人体も、早め早めの修理こそ、熱帯に生きる知恵なのだ。
度胸と根性それから努力
日本人移民の開墾速度は、ブラジル社会では、ゆっくりさんに受け取られた。
山焼きの規模も、4~5ヘクタールで壮大なものになる。
アマゾニア開拓の華として、山焼きをイメージすることは多いが、原生林内の測量と入念な植生調査こそ、日本人の開拓者の誇るべき度胸である。
GPSもシャープの電卓もカシオのGショックもない時代。答え一発などあり得ない。原始林内は縦横無尽に走る河川と直径2m級の倒木が存在し、ヘビやハチ、サソリその他、毒虫の不意打ちにも注意していなければならない静かなる戦場である。
測量して改めて知る事は、アマゾニアの河川流域は、起伏に富む土地である事だ。
パウサントのような工芸木を傷がつかないように、注意深く原生林から担ぎ出し、コショウの支柱と住宅建材を択伐し、担ぎ出すのは、開拓農民の根性。
山焼きは一瞬のお祭りで、その後の寄せ焼き、伐根と整地から農家の努力は始まる。この度胸と根性と努力の積み重ねこそ、日本人の至誠(まごころ)の原点となる。
自ら伐採作業にあたる日本人の木工職人が、腕に磨きをかけ、本格的な仏壇までも製作する状況になると、原生林の存在は、怖れ多きものとなる。
坂口和尚は率先して農園に立ち入り厳禁の区画を設け、トメアス移住地に残存する原生林の保護に生涯を捧げている。郷里の偉人・南方熊楠の影響は極めて大きい。
坂口陞は、東京農大の林学科に学び、森林の生態、利用、経営を科学的に捉える教養を身につけているが、移住してからの応用と実践は際立っている。
坂口和尚の大学4年次、卒業の関門に、会計学があった。最終試験は、たった1行。「各自将来の職業を想定し、親から受けた学業資金の返済に要する年月を記せ」。
各自事業を興すも、エリート公務員を目指すも、金利も全て自由な出題である。
若い農大生は、思い想いに、将来の成功を夢想しながら、恩返しのつもりで利子の計算を入れて算出したという。
しかし、教授は、具体的な返済年月を算出した学生全員の解答に、怒りを大爆発。
「貴様ら、親の恩をはかるとは、大馬鹿野朗だ」「親の恩など返済などできるわけが無かろう」と、凄まじいカミナリを和尚は懐かしむ。
その罵声を胸に、はるばるアマゾニアに移民してみれば、パトロンの存在は、肉親そのもので、大学出の若造ごときが「パトロンに恩返しなぞ、生意気だぞ」という気風に満ちた、荒々しい開拓最前線を思い知る。
恩返しの暇があったら、後に続く若者の面倒を見ろという激情こそ、当地日本ブラジル文化協会の原動力である。
タケの潮騒
アマゾニア全般に日系農家の入り口付近にタケの茂みをよく見かけるが、始まりは南米拓殖の研究陣がもたらしたもの。開拓の始まりには、養蚕とカカオ栽培を経営の柱とすることも企画していた。蚕さんの巣づくりには、おびただしいタケ材を必要とする。カカオの果実の収穫にも、小さな鎌を装着した槍の柄として、軽く、強靭で、手に馴染むタケ稈にまさる素材は無い。
そのタケは、ブラジル在来種ではく、日本のタケでもなく、中国南部原産のバンブーである。海の覇者ポルトガル人がもたらしてくれたのだ。
移民博物学者・橋本悟郎をとことん混乱させたのが、この種の外来のバンブーの繁茂と拡散、土着にあり、ブラジル在来植物の探査に発奮した要因なのだ。
アサイザールの試験場にも数多くのタケ苗がサンパウロ方面から嫁入りしている。そしてタケノコの美味しい品種は日系農家の食卓を飾り、奥地に拡散していった。
アカラ植民地では、その創設初期から墓地の管理は、安芸門徒の方々に護られ、お盆の集いは、ブラジル国のお盆の11月2日に執り行われる。
お墓にタケの花入を添えるのは、子供たちの重要な役割であった。
かつて広島県の子供の習俗として、お墓参りに、竹筒の花入の径の太さを競ったという。花入の竹筒の太さに、ご先祖様は喜ぶのだという。
アジアの海洋民族にとって、タケは船の素材としてばかりでなく、天地の霊を受信する通信機であり、民族楽器の製作によく活用されて来た。
時代は下り、聖市のアミノ布団店は、北伯への商品配達に、タケノコの美味しいタケ苗も一緒に搭載し、ベレンへの街道を北上していったと言う。
中空植物のタケには、カンピーナス東山農場の山本喜誉司の情熱も偲ばれる。(つづく)
https://www.nikkeyshimbun.jp/2019/191004-61colonia.html
森の中の木挽き、フレジョー材 (本人提供)
1982年8月、第二トメアス、第三センター
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やまと心の森林農法
アマゾン移住90周年に想う (下)
Jornal Nikkey Shimbum 2019/oct/5
やまと心の森林農法
アマゾン移住90周年に想う(下)
松田パウロ
聖市とベレンでは3000キロ、東京・マニラ間の距離にあるが、志ある日本人の意志は、不思議に繋がっている。坂口和尚と橋本悟郎との交遊。南米の大豆の父・宮坂四郎との信頼関係。
坂口和尚は、40代の男盛りの頃、マンジョカ芋の研究に精力を注いでいた。
和尚の兄は、フィリピン国のコレヒドール要塞攻略戦に参加し、熱帯林で飢餓地獄を体験し、その強烈な物語は時空を超え、繰り返し弟の胸に刻まれるのであろう。
和尚は夕食時、ファリーニャを評しては、その優れた保存性と調理特性を語るのであった。
ブラジル国の開拓地では、机上の空論は、全く相手にされないものだが、坂口和尚は、大河流域の素朴なマンジョカ栽培の観察から農家と農業の永続性に目覚める。その後、自分のカカオ畑の湿潤な下層にサトイモを増殖し、立体農法の効用を誰にも分かり易く展示する。自らは語らずとも美味しいイモ煮が食卓を飾るのみ。救荒作物のサトイモは、気候変動と飢餓の歴史を刻み、カカオ畑の林床に眠る。
宮坂四郎は、南米の風土に適合する大豆の育種に際し、フィリピンのインゲン豆(シータオ)と交配させることで成功をおさめている。
橋本梧郎は、移民した直後に、マンジョカの毒抜きから実学を発展させてゆく。
飢餓に対する危機意識は、時空を超え、不思議なほどに人と人を結ぶのであろう。
育種学者、博物学者、農民の三者が直接に一同に会食することは不可能としても、農業実習生や旅人を介して、情報交流は、穏やかに行われていくのであった。
インターネット以前、情報とはまさに情に報いること。一葉のハガキ、一枚の写真、名刺の裏の手書きのメモなどに、静かな情熱は、ほとばしっていた。
教育林苑
アカラ植民地の初代の移民は、人知れず、立派に日本文化の花を咲かせている。
全く経済的に報われないが、もち米からアズキまでも栽培してくれたこと。移住地の黎明期から相撲大会を開催していること。
質素ではあるが空調に優れた銘木作りの家に住まうことで、わずか20年で、辺境の森林地帯に定住農業を興し、空前の高額納税者の文化村を誕生させたのだ。
ブラジル式開発方式ならば、開設3年ほどで、移民50周年のトメアス日系人口約2000人を超える市街地建設を達成してしまう。まず十字路を設定し、低所得者に無償で分譲するのだ。ただし教員なき小学校、大音量の狂乱音楽に、犯罪の多発する西部劇の街並みに甘んじなければならない。
トメアス移住地は、十字路(Quatro bocas)を構えるものの、文協会館を中心に同心円状に極めてゆっくりと発展している。森林の遷移する時間感覚といえよう。
そして移住地開設60周年に、全トメアスの電化達成の点灯式を迎えるのであった。
人間では還暦だが、樹木では青年期に当たり、盆踊りは華やかさを増し始める。
それは人口増加に見る肥大生長よりも、農の文化の成熟生長に重きを置く拓殖事業の、おもしろさであると、坂口和尚は力説する。
当時のブラジル国の紙幣クルゼイロと聖徳太子の円の紙質の違いを連想する。
坂口和尚は、晴耕雨読を徹底し、歴史関連の月刊誌を日本から取り寄せ、ボロボロになるまで熟読されていた。遠出の上着の内ポケットには、経典を忍ばせていた。
ご実家は曹洞宗で、かなり厳格な躾を受け、農作業は作務そのもの、動く禅である。還暦を過ぎ移住地の僧侶として浄土真宗の教義を実践し、良寛さまのような語り口で若者を魅了するようになる。
和尚も壮年期は組合の理事であったが、同じ作物を最低10年間作らねば、会議での発言は許さないという気迫があった。冒険心溢れる二世の組合員たちの理解を超えていた。
しかし熱帯作物との対話を覚えるに、10年では短すぎるのが現実だ。鳥のさえずりに目覚め、創意工夫を求めてやまない森の仕事に追われる日々。
早起き早寝の生活は、病気や犯罪者の存在しない健全な社会実現の第一歩でもある。風呂上がりの読書と家族の団らんを約束する究極の家は、森の中に建つ。
日本人移民の家には、土足厳禁の居間と寝室が確立している。
坂口農場では、呼吸する木造の家は、森に溶け込み、防火、防犯の機能を向上させ、台所のカマドの煙は、周囲の樹木を元氣にする。カマドの灰は、イモを太らせる。粉炭は、健全な豆類を育成する。
坂口農場のかまどの燃料は、近隣の製材所の捨てる端材を原材料とする木炭である。その木炭は、かつてはトイレの壁面に積み上げ、アンモニア臭を吸着させ、菜園の自家製チッソ肥料としていた。
台所は、森林エネルギーを燃焼するパワーユニットに違いない。敏子婦人の調理するマンジョカの葉の煮込み料理マニソバは、訪れる旅人を魅了して止まない。
アサイザールの地名に恥じない、自家製アサイジュースは、多くの旅人に忘れえぬ感動をもたらしている。
和尚の卒業論文は、郷里の紀州備長炭の各作業工程をストップウオッチで計測し、作業効率改善を考察するものであった。その探求心は衰えることなく、カカオの殻をはじめ様々な農産廃棄物を炭化するのである。
第二トメアスの熱帯農業研究所の土壌分析技術者・大堂志郎と産業組合の農業技師・小早川利次等との討論は、実地演習とを交えて、果てしなく白熱してゆく。
コショウ生産の築いた資本と文化施設があるからこそ、自由で純粋な研究活動に専念できるのだ。コショウ畑は緑の海のほんの一点に過ぎないけれど、森林農法の序章になっている。生存競争はせず、次世代の森を誘い、育て、枯れて土に還る。
90年代初頭から、坂口農場では、日本の炭焼き伝道師・杉浦銀治の指導を仰ぎ、坂口農場の炭焼き窯は、森の化学工場としての進化を始めた。
炭焼き窯の天井を作ること、補修をすることは、大変な手間であるが、その天井を鉄板で作り、その鉄板の上に土を盛り、ヤシやバナナの葉で覆う。土の消毒を同時進行させ苗床の培養土とする。炭焼き窯の底部には、家畜の骨を敷き詰め、リン酸肥料を産みだす。木酢液の多角利用も、はじまる。
かつての山焼きの煙は、炭焼きの煙に変じ、煙を冷却して化学的に活用するのは、日本の森林文化の精華といえよう。鉄板天井の炭焼き窯は、トメアス坂口農場から森林農業のパワーユニットに昇華したのである。
その着想は、ノモンハン事件の戦車の残骸に由来する。東京帝大に林学を学んだ炭焼き博士・岸本常吉は、ノモンハンの激戦を体験し、おびただしい鋼鉄の戦車の残骸の有効活用を考え始めた。岸本常吉の熱帯圏の炭焼き活動は、インドネシアはカリマンタン島にて試行錯誤を重ね、弟子の林業試験場の研究者・杉浦銀次が、トメアス移住地に、鉄板天井方式の炭やき技法を伝承した。
その打ち合わせ、段取り、すべて土間の台所の大きなテーブルにはじまる。どんな孤独も楽しむ男の覇気は、炭火料理を活力としているのだ。
農家のパワーユニットは、コンパクトな化学工場に発展し、土壌微生物の活性化しアマゾニアを、永遠なるみどりの宝庫にするに違いない。
芋と豆は、経済恐慌を迎えた時、最も手堅い通貨になろう。木材は、乾燥と保管が正しく行われれば、木財として、家族の未来に伝承されよう。
水資源の森の中に住む幸福、そして共生(ともいき)、共育(ともそだち)の仕組みを教える 環境保全地域をあえて教育林苑と呼んでゆきたい。
「変人こそ世の中を明るくする」とは岸本定吉のお言葉であるが、若き日トメアスの三大変人に数えられた坂口和尚は、ブラジル移民100周年式典とブータン王国の農事指導を目前に生命を完全燃焼させてしまわれた。
熱帯の知性は、同種で群れることを嫌い、孤独を楽しめる者を歓迎している。
森林農法に、経典は無く、天地の声を聴くことに始まる。
珠なす汗と、やまと心により、知識を研ぎ澄まし、血路を拓く。
「やまと」それは、あにくに。豈国と書く。豈は、山と豆から成る楽太鼓である。
アマゾニアは、マメ科植物の宝庫であることを念頭に、ひたすら、楽太鼓を打ち鳴らし、歓びあふれる楽しい国づくりを希求する。
アマゾニアその緑の海を、吊り床に眠り、教育林苑の「ゆめ」は続く。(終わり)
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故坂口陞さん
南足柄にある丸太の森、福沢小学校(本人提供)
昭和8年に建設された木造校舎)